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《寄稿》「金沢での関屋先生の思い出、そして・・・」

  • kanazawacapella
  • 6月10日
  • 読了時間: 3分

 

 平成17年に亡くなられまで、湘南市民コールの常任指揮者でおられた関屋 晋先生に初めてお会いしたのは、実は、金沢二水高校合唱部でのことでした。


 私は昭和56年の9月に二水高校に転入し、合唱部に入部しました。朝日のコンクールを間近に控え、既にコンクール曲の練習が佳境に入っていた時期でした。二水合唱部で以前から時々指導をお願いしていた関屋先生の練習が、9月下旬の土曜だか日曜だったか、二水の近所の、今の城南公民館で行われました。

 その数日前から、「もうすぐ関屋先生の練習がある」と、先輩や同期達は何やら落ち着きのない様子。先輩方からは「粗相のないように」的な指示が幾度ももなされましたが、転入したばかりの私はただポカンとするだけ。どうやら、東京の方から、とにかく厳しい先生が指導に来られる、ということだけは何となく分かりましたが…


 当日、山瀬先生と一緒に練習会場に入って来られたのは、小柄で姿勢のいい、そして眼光鋭い初老の男性でした。早速課題曲の指導が始まりましたが、リズムにしろ音の強弱にしろ、音程にしろ、私たちが僅かなミスや間違いを犯しても、その都度曲を止めて激しい叱責を受けました。その怖いこと怖いこと。日頃の山瀬先生の指導もかなり厳しい、と感じていましたが、それに輪をかけた、妥協のない厳しさがありました。

 課題曲がパーセルの英語の曲で、私たちが「savior」の発音がうまくできなくて、その都度「自動車整備屋じゃ、ねえんだよ!」「セキヤ、セキヤ…って、呼ばれてるみたいだ!」と叱られ、やり直しをさせられました。そう、厳しい中にも、しばしユーモアを交えておられました(後で聞いたら、先生は高校時代に落語研究会におられたそうです)。

 そして、先生が「ここは全員、切ってブレスをするように」と指示したところを(英語でカンマのあるところなので当然なのですが)、こともあろうに、当時120人いた合唱部員の中で、私一人だけが「つないで」しまったのです。すかさず、先生の鋭い視線が私に向けられました。そして指揮を続けながら、2秒間ほど私を睨みつけ続けたのです。もう穴があったら入りたいどころではありません。その場で蒸発して消えて無くなりたい、とさえ思いました。

 休憩時間に、先輩方から、「関屋先生は、「大したことないや」と思ったときは優しい。でも、「こいつはいけるぞ」と思ったときはとにかく厳しいんだ」と言われました。実際、練習中に、

先生から「今年は、いつになく、いいんだからね!」とのお叱りを受けました(決して、「誉められた」のではありません。油断してつまらぬ取りこぼしをするな、と戒められたのです)。

 

 その後社会人となって、縁あって関屋先生が指導する湘南市民コールに入りました。数百人を相手に指導していてもしっかり一人一人を見ている、妥協のなく厳しい、そしてセンスに溢れた指導は亡くなられるまで変わることはありませんでした。それでも、私の知る限り、初めての二水での関屋先生が一番厳しかった、と、今だに思えてなりません。

 湘南市民コールの先輩から聞いたのですが、二水合唱部の指導をはじめた頃、市民コール練習後の飲み会の席で、関屋先生はよく「二水はね...」と、練習の様子を語っていたそうです。やはり、目をかけていただいていたのでしょうか。


 今、高校時代に使っていた「わたしの願い」の楽譜を開けるたびに、関屋先生の声が聞こえてきます。「そんな古い楽譜を後生大事に使っていないで、常に新たな気持ちで曲に臨めよ!」と。

久しぶりに演奏する曲の楽譜は買い直せ、というのが先生の口癖でした。

 どこか、「わたしの願い」の曲の主題と、相通じるところがあるようにも思います。

 でも私は、あえてこの古い楽譜を使い続けるつもりです。関屋先生の声が聞きたいですから。今日なお先生に叱られながら、新たな気持ちで、「わたしの願い」の演奏に臨みたいと思います。

 

                          湘南市民コール 都田 光彦 様



 
 
 

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